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壱岐牛の元祖は壱州牛、壱州牛の始まりは、壱岐牧場(昭和50年)
昔、壱岐は壱州(イシュウ)、対馬は対州(タイシュウ)と呼ばれておりました。 
壱岐は肉牛生産団地で肉牛の元牛として出荷されていたために、
壱岐牧場は理想肥育した牛と、区別する為に壱州牛と名付けたのです。
 
壱岐牛は、宮廷の牛車を引いていたと、古事記に記されております。
 その当時から、壱岐では農耕用として飼われていたのです。
 昭和48年頃から肉用牛として品種改良され、国より肉牛生産団地指定を受けております。
その当時は、子牛で神戸、松阪牛等の元牛として出荷され、
牛肉としては世に知られることは無かったのです。 
壱岐牛の写真
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牛が居るのに肉がない、そんな使命感を抱き、
 壱岐牧場を昭和50年に設立、昭和52年に「壱岐牧場お食事処」としてオープン、
 壱岐で初めて「壱州牛 いしゅうぎゅう (壱岐牛)」の誕生となりました。
壱州牛のロース、ヒレ、もも肉の写真 壱岐牛とオナーの写真 
 現在島内では「壱岐牛」としてブランド化しておりますが、壱岐では、2〜3頭の牛を、
 一軒の農家で飼うのが今でも主流。そのため自家製で、
なおかつ潮風が運ぶミネラルを含んだ 
 稲藁や雑草などが充分に与えられ、一頭一頭に手を掛け育てられているのです。 
その堆肥が、さらに豊かな有機農業を支えているのです。 
 
 
                     壱岐牛日記                    
   私が故郷で牧場をしているのを知った福岡の友人は、
   「まさか」と言いながらも彼らしいと評価してくれました。
 
   その動機は、太平洋クラブの初代企画室長が、欧米の地中海クラブを、
   ある雑誌で紹介された事に始まります。
 
   その内容は、欧米の方は余暇を楽しむために働くのだと紹介され、
   そんな方々が会員と成られ、何も無い所に一月ぐらい過ごせる設備が整った、
   楽園を幾箇所も造っているとのことでした。
 
   その事に共鳴のあまり、衝撃を受けるくらいの感性を持てたのは、
   戦後、福岡に駐屯していた進駐軍との交流のお陰なのです。
   彼らは、今のアメリカと比べれば、おとぎ話と思えるぐらいスマートで
   紳士的でありフロンティア精神を誇らしげに語ってくれました。 
 
   私の父は海軍でしたが、戦後その責任を感じてか仏のように過ごしておりました。
   私は逆に、その落差を受け、悪く言えばコンプレックス、良く言えばフロンティア精神そのものでした。
   貪欲に何かを模索する私には、進駐軍が話して聞かせる総てが最大のエネルギーになりました。
 
   その結果、大学時代に、今までの水商売に全く無かった空間を作りました。
   当時のスタンドバーにジュークボックスを置き、その前に踊れるフロアーを設けた店を、
   何の経験も無いのに、いきなり作ったのです。そしてその店を盛り上げたのは進駐軍でした。
   彼らは私達に敗戦国と思わせるどころ紳士的でした。
 
   その反面、合理的で一杯50円のハイボールを握り、何時間も楽しんでおりました。
   しかし彼らは客との会話を楽しみ、まるで従業員の様な役割をするムードメーカーでした。
 
   そんな店が繁盛しない訳はなく、客からも感謝され慕われました。それから始まりスナック、
   サパークラブを作ると、次は何をして楽しませてくれるのと期待される程でした。
 
   スナックとは第一回目のオリンピックにインバウンド対策で、12時過ぎの深夜の禁酒条例なのです。
   アメリカではアフターザバーと言われるスタンドバーには死活問題なのです。。      
 
   それに対し法学部の私は、食べ物60%飲み物40%は食堂とするの条例を活用し、軽食はスナック
   で有ることを進駐軍に確認したのです。それが日本初のスナックの誕生なのです。
 
   法治国家は法を守らなければならないが、現場を知らない者が作る法に対しては、抗議する権利を
   認めているのも法なのです。
 
   このような難問題を乗り越え、常に先を見て小さな成功を致しましたが、
   人生を掛ける仕事には出会わなかったのです。
 
   そんな時に地域造りをする地中海クラブの出会いは、自分の身の丈では最高のものでした。
   地中海クラブの地域造りは国造りと同じで、男の最高のロマンなのです。
 
   迷わず、故郷壱岐を余暇の島にするビジョンに向かって始動したのです。
   それには壱岐の知名度をあげる為に一つでも目玉が欲しい思いから、対馬馬を8頭飼い
   アメリカンポニーとの交配した小型乗馬に取組みました。
 
   余暇を楽しめる余裕が芽生え始めた矢先に、オイルショックによるパニックが起こり
   ウイークエンダークラブと言う事業は遠のいたのです。
   その結果、対馬馬は対馬に返し、牛飼いを始めたのが壱岐牧場の創立となったのです。
 
   世の中は解らないものです、その壱岐牛が故郷を代表する目玉にに成ったのです。
   同時に観光が壱岐牛を有名にしたとも言える相乗効果が生まれたのです。
   その牛は昔から飼われていた農家が有ったらこそであり、それが島の資質なのです。
  
   そんな資質を発掘する事が大切なのですが、それはその道に居なければ出来ないのです。
   同じく大切に牛を育てる方々が居なかつたら、新たな目玉は出来無かったのです。